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4月6日

 

 

花椿のコンクールの締め切りだと思っていたらそれは8日の話だった。詩、もう5年も書いていないのですっかり書き方がわからない。無意識のうちに最果タヒのようになってしまう。

 

相変わらず館長にメールを返せずにいる。わたしは啄木じゃない。啄木じゃないけれど、敢えて彼と同じ轍を踏まないようにするのもおかしい。ここに生まれて短歌をしているという運命のような事実が、呪いにも祈りにもなる。祈りは呪いのようにのしかかるし、呪いはひっくり返って祈りになる。

 

わたしの作ったお弁当にはしゃぐ母がかわいい。ずっとそばにいてあげたいと思う。と同時に彼氏のことが恋しい。電話の向こうが池袋駅だと言われても実感することが難しくて、頭の中にgoogleマップを浮かべてはくつしたを裏返すようなきもちになる。ずっと離れたところにいるのに同じ時間が流れているということ、頭ではわかっていても実感できない。だから会いたい。会いたいよ。

 

水戸黄門みたいに一話完結の日々で清々しい。毎日新しい敵が来ては成敗して、明日の用意をして眠る。彼氏のことも、その都度いろんなかたちになってしまいそうなくらい好きで、尊敬していて、毎日告白しなおしているような気がしてくる。毎日人の縁に支えられて、背後には着々と味方が増えていき、困った時には合体ロボみたいになってみんながわたしを助けてくれる。本当にそんな風に思ってありがたくて天を仰ぎそうになる、わたしばかなのかな。

同期最高!と言う新入社員たちのきもちがすこしわかる。一人暮らしをしたり、アルバイトをしたり、自立した事実に不安になったとき、感謝が浮いてくる。同期最高!と思っているひとは、がんばっている。そういう人たちをばかにして笑うひとをかわいそうに思うようになった。きもちもわかるけど、わたしはいまそちら側じゃない。

 

すべていとしい、と観念するように思う時、それがすっかり仙台で好き放題に暮らしていた時のデジャヴュで驚く。あの時間だけが、あの環境だけが愛おしかったのではなく、わたしはどこにいても(時に匿名の怨念に猛烈に執着されるほど)恵まれた暮らしを送ることができるらしい。わたしはわたしの好きな人たちに好かれることができ、その人たちと明るく過ごしていける。これはわたしの手のひらに初めから描かれていた強運であり、自分で身につけた才能だ。

 

蒸した新玉ねぎがひかりの塊だった。