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2月18日

葬儀のことを思うと気が滅入り、へとへとに疲れていたのにその日のうちに盛岡に帰らなかった。23時の国分町には雪が降っていた。ふたりであるいていても風俗店のキャッチは声をかけてこない。キャッチに声をかけまくられるような人間になりたかった、という謎のあこがれをずっと抱いている。

 

わたしには昔から何か迷った時は両方選択しようとする節がある。たとえばミネラルウォーターとブラックコーヒーで迷ったら自動販売機のボタンをせーので同時に押す。同時に押したつもりでもどちらか一方が感知され、神の選択によるところのものをわたしは飲む。きょうも迷ったボタンをふたつ一緒に押した。そしたらふたつとも選択"ささって"しまった。機械が少し調子を崩してしまい叱られるでもなく迷惑そうな顔をされた。屋根が家にめり込んで、壁が斜めだった。407という数字をラッキーセブン、って呼ぶのはちょっと違うだろ、と思いながらラッキーセブンでいいね、と言った。神の選択によるところ、それはどちらを選んでも対して変わらない、ということかもしれないし、あるいはどちらも選ぶべきではなかったという意味かもしれない。

 

自分の人生のことだけを悩めるのは若いうちの特権らしい。悩む暇もないような日々がすぐそこでわたしに手をこまねいている。それにしても、あなたもあなたも、そしてわたしも、考えたってどうしようもないことを考えすぎなんだよ。自分のことを理解したり解説したりしているつもりで、根本的に何も変わらないなら免罪符にもならない。自分に詳しくなればなるほどそこには絶望しかないのなら、ある程度のシナリオを演じるくらいの方がいいんじゃないの。無理しろってことじゃない。無理しないために、だれも傷つけないためにそうしたほうがいい。上野樹里が何を演じてものだめにしか見えなくなるようなことを起こすこともできる。そしてそのシナリオはあけすけに公開しちゃいけない。きみがどういう人か、それはこちらが決めることだから。

 

考えたって無駄だって。三つ子の魂百までなんだから、22歳までずっと変わることのできなかったこだわりのある性格は、700年後までそのままなんだよ。というと、絶望したようにきみは笑った。くよくよしているのは、くよくよしたいから。だれしもなんだかんだ、したいからそうしていて、自分に満足しているのではないか。いまにも潰れそうな商店街や古いビルの名前、歴史について詳しいくせに、コンタクトレンズにソフトとハードがあることをきみは知らなかった。

 

 

 

そうすべきだと思ったからそうする、みたいな、たましいの行方を優先させて身体を従わせたい。そこにシナリオはない。ないって言ったらうそになるけど、わたしはいつだって迷ったボタンはどっちも押して、そうやって生きてきた。

 

けれど。わたしの選択の理由を聞かれたとき、神の選択によるところ、なんて答えるのは卑怯だと思う。だからそう言う時は大抵「おもしろそうだから」か「さみしそうだったから」と答える。おもしろそうだからさみしそうだった。「きみは自分が思っているよりも上手に自分のことを見せることはできていないし、どっちかっていうとそういう不器用さを愛しく思われているんだよ」と言われた。知ってるよ。2ちゃんねるが教えてくれた。そんな恥ずかしいことあってたまるかよ、と思いながら「ぜんぶわかっててそうしてるの」、とおどけたりする。我ながら、かわいそうだよね。

 

 

考えたってどうしようもないことを考えすぎだし、何かを示唆したようなことを言いすぎる。もっとひろびろした話がしたくなって、いわしの群れ、と言うと、なんだよそれ、と笑われた。知らないの?見たことない?いわしの群れ。ものすごい数のいわしがきらきらしながら群れて泳ぐんだよ。意思を持ってさまざまな形にうごいているように見えるけど、よく見ると先頭がいないの。みんな、そのときにそうしたほうがいいと思う方向に泳いでいるだけなのさ。でもすごくきれいなんだよ。このまえさ、好きな人と水族館でそれを見たの。彼はとても疲れていたから大水槽の前の椅子に腰掛けたまま眠ってしまって、わたしはその寝顔といわしの群れを見ながら、なんだか大きく安心したのさ。安心っていうのは、途方にくれるほど守られるってことだと思うな。わたしは。何を選んでも大丈夫かもしれない、ってきもちになったの。そのときは。

 

 

仙台駅まで歩きながら、「まだまだここの住人じゃない自覚がないや」と肩をすくめたら「どんどんよそ者になるんだよ」と言われた。そんな顔しないでよ。