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無題

日記を書きたい、日記を書きたい、と1時間に1回くらい思って頭の中でふたつくらい文章を考えて、何にもメモしないまま眠ってしまう。そういう日々が年末からずっと続いていた。眠って起きて氷水を飲んで、サンキャッチャーのひかりを見つめて、お酒をすこし飲んでまた眠る。時間ばかりがあるのに、わたし自身はなにも進んでいない。時間は進むものではなくて、溜まっていくものではないでしょうか。ところでもう2017年の12分の1が終わるんですね。ええ〜と声だけ驚きながら、そんなことはわりとどうでもよくて、それではこの30日間が、わたしの人生の何分の1なのか教えてほしい、人生の分母を知りたい。

 

どうして15歳の時から日記を書き続けているのだろう。誰かに見せるための日記しか書けないのだろう。頭に浮かんだたくさんの文章はどこへ流れていってしまったのだろう。めまぐるしく思い浮かぶ自分の言葉を記すことをついにあきらめて、活字になることのないその文章が流れていくのを見送ることは、果たしてほんとうに勿体無いことなのか。日々に杭を打つように日記を書いたりSNSを更新したりして、それがあとから何になるっていうんだろう。そんなことを考え続けているうちに、はてなブログのアプリを開くこともやめてしまっていました。誰かにわたしの一生を見つめていてほしい。もちろんそういうきもちはある。でもそれはほんとうの理由じゃない気がする。うん、ほんとうの理由じゃない。こんなにも使命のように今思ったこと、今気がついたこと、今起こったことを今書かなければいけないような気がしてしまうのはいつからだろう。

 

自分の人生が物語で仕方がない。そういうスイッチみたいなものが2年前くらいにはっきりとONになった。日々に詩があって、人びとの話すことはすべて台詞、無言の動作すらもわたしにとってはト書きで、花は季語で、空や雲はメタファーで、お揃いのアルコールランプを手を滑らせて割ってしまうことも、雨の日に訪れた花屋でコーヒーを淹れて貰うことも、ぜんぶ意味だ。もちろんそんなのしゃらくさいとも思う。でも、息のつまらない程度に、程よく、日々がたのしくて仕方がない。自分の喜怒哀楽もその日の天気も、優劣なく愛している。生きている限り"生憎"なんてない。うれしくて仕方がないから、書きたくて仕方がないんだと思う。

 

わたしやみなさんのようにいわゆるエモさやポエジーを感じやすい人間というのは、たましいの皮膚がうすいのではないでしょうか。生まれながらにしてたましいが他人よりもすこし弱い半透明の皮膚に包まれてしまっているせいで、暑さも寒さも、ひかりも暗闇も、敏感に受け取ってしまう。それは先天的なものなので今更どうしようもないことだし、厄介だけれどとても恵まれた欠点だと思う。恵まれた欠点を持ち寄って、わたしたちは詩をつくったり写真を撮ったり歌を歌ったり絵を描いたりするのではないでしょうか。そうやって表現をすることでたましいのまわりを泡みたいなもので守っていくしかないのではないでしょうか。わたしはわたしを守るために、石鹸を泡立てるような心地で日記を書くのだわ。思い出した。